山形の風景

山形の風景

2011年1月23日日曜日

宮古島の思い出

先島杯の全貌をご覧下さい。

追記平成23年3月3日
柳田国男の「青年と学問」に宮古島に関する次のような記述を見つけました。

沖縄諸島のさらに南の果てに、宮古と呼ばれる島がどうして存在するか。奧州海岸の都島は既に「古今集」の歌に詠まれている。今の松島の宮戸島のことだともいえば、いやそれよりも遙か北にあるともいう。島ではないがとにかく陸中の閉伊にも、古くから宮古という港がある。
九州では豊前の京都郡なども、いろいろな伝説はあるが皇居とは関係がなさそうだから、同じ系統の一例には相違いない。何でまたこんな地名ができたか不思議のようであるが、やはり今日の都と元は一つの日本語であったとおもう思う。沖縄県の宮古島には、アヤゴと名づけて、古い歴史が多く韻文となって、口伝えに伝わっているが、その中には島をミヤコと呼んだ理由の伺われる文句が残っている。すなわち、ワーミヤクヌ(我がみやこの) ウフミヤクヌ(大みやこの)  云々という対句をもって、あの周囲わずか八九里の、珊瑚礁粉末の痩土の島を賛美しているのである。今日の国語では、ミヤには宮という漢字を宛て、これを宮廷か神社のみに使用することとなっているが、元はこの語の用途は広く、領主もしくは、部落長の住宅もミヤすなわち御家であり、従ってその所在地がミヤコであったものと思われる。内地にも宮原宮城という類の地名は多いが、沖縄本島でもところどころにいくつかの宮城があり、八重山では最初の主邑が宮良であった。少なくとも漢語のミヤよりは意味が広かったが、しかもこれに基づいてミヤビとヒナビを区分し、そのミヤコに住む者は既に我が土地に自得して、多く神話時代から住み続けてきたのである。

この小さな満足優越感が、どのくらい孤島の一宮古のための大いなる煩累であったかは、諸君の想像以上である。この島の人は今でこそ盛んに島外に出て行って、最も辛抱強くかつ精悍なる勤労をしているが、以前は少しでも出て行こうとせず、またそのような機会もなかった。そして目と鼻との間でそれはそれは激しい戦闘をしていた。生き残った勇士の家の功名談の裏から、滅ぼされた他系統の勇士の悲壮な終焉がよくわかる。
つまり両雄並び立たなかったのである。それ以外になお天災も多かった。シガリナミというのは海嘯(つなみ)のことで、島の記録には四海波という文字が宛ててあるが、われわれの使うような四海波静かではなく、いくつともなき邑里を荒跡とし、すなわち古き都はそちこちに畠となっている。井戸なども今は涸れたものが多い。何しろ人の増加が恐ろしい割合で、あるとき多く減じてもまた一杯になる。しかも天然に対してはこの通り無抵抗で、人同士は常に相争ったのである。そうして最後の勝利者の一群のみが栄えている。これがいわゆるヨカルビト(上流)となり、彼らの記録を保存しているのである。その記録を読んでみると、支配階級の家を保全した手段は二つ、そのひとつは主島への朝貢、ことに租税納付の約束である。第二には次の島の征服、これにも十分に中山王廷の背景勢力を利用している。これによって政治上にもはや抗争する者なき優越の一団ができて、大切なる島の統一は成し遂げたが、他の多数は争いえなかったというのみで、その生活は非常に悪かった。宮古島から征服せられた八重山の方でも、同じ結果に帰着している。古くからの酋長の後裔は、今百姓となってひどい圧抑に苦しんだが、それも今は三分二以上の村々が、今から百五十年前の大海嘯に滅亡して、その跡は歴史を少しも知らぬ他の小島の移民をもって補充せられ、外部から見た歴史は要するに士族のみの歴史である。

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